東日本大震災にともなうWASCからのお知らせ
弊社は「そこに住む人の生命と財産を守りたい」との想いで2005年に創業しました。
具体的には「常時、自然災害時の住宅の不同沈下防止と修復」です。
代表取締役高森洋は昭和46年から住宅基礎、地盤に関り、その後の宮城県沖地震以来、多くの自然災害被災地で調査、修復にあたってきました。これらを通じて感じたことは「地震の時、地盤は昔の姿に戻る」で、以後機会あるごとに言い続けてきました。
40年余自然災害に関ってきた高森は、今回の大震災の復旧修復に天命、使命を感じています。
このため今までの経験と実績の全てを今回の大震災に注ぎ、現地での取材、調査、修復相談などの生々しい状況をお伝えすると共に、弊社の責任で見解を述べさせていただきます。
このことによって微力であっても被災地の皆様方の復旧、復興に役立ちたいと願うものです。
被災建物の調査と修復設計を希望されるかたはご連絡ください。持てる力の全てをかけて取り組ませていただきます。
第11報:岩手県で多くの方々と話をさせていただきました…4月29日~5月1日
この3日間、話をさせていただきました方々を記録します。ありがとうございました。
- 4月29日:
- 宮古市姉吉で津波の石碑を撮影していたとき、家の方からローラーボードで滑って降りてきた少年との短い会話
高森:昔の人はすごいね
少年:はい、おかげさまで助かりました。
小学校高学年と思われる少年の口から「おかげさまで」の言葉が躊躇なくあり、先祖からの遺訓をきっちり受け継がれていることに感激しました。
- 4月29日:
- 宮古市重茂。ここで昭和8年の津波記念碑を発見して書き留めていたとき、視線があったおばあちゃんに話しかけました。
「私が小学3年生の時。そのときは夜中だった。大津波を2回経験した。長男と私は記念碑より高いところに住んでいたので被害が無かった。次男は低いところに住んだので家と車を流された」
- 4月29日:
- 宮古市赤前 (有)かくりき商店の社長さん、専務の息子さん、ご家族。
姉吉に行く道を尋ね、帰りにお礼に寄らせていただきました。
宮古湾の入ってきた津波とその返し波を眼下にみて、とっさに従業員、ご家族が山手の道に避難したため全員無事。
ご自宅は先代社長が建てられた本格木造住宅。1階の天井(宮古湾の普通時水位+20mm推定)まで浸かったが損壊無し。当日は壊れた水産加工工場を皆さんで修理されていました
「ここは高台だから津波の高さが見えたので逃げることができた。対岸の人々は防潮堤の下に住んでいるので、津波が見えたときは逃げる時間が無かったはず・・」
・・・姉吉と同じく「住むところの高さ」を教えられました。
「関西の知人はやさしかった。直後に駆けつけてくれた」関西人の一人として、ありがたい言葉でした。
- 4月30日:
- この日は宮古市金浜~山田町~大槌町吉里吉里~大槌町~釜石市へ行きました。
全滅している町を見ると声が出ず、人に話しかけることができませんでした。
- 5月1日:
- 陸前高田市気仙町の菅野啓祐さん。
詳しくは第10報に掲載しています。
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- 大阪府堺市から被災地へバッテリーとライトを配っておられる島田さんご夫妻。自動車のバッテリーにLED電球をご夫婦で配線されたものをたくさん車に積み込んで福島から北上しておられました。
第10報:陸前高田市気仙町で元気に泳ぐ鯉のぼりを見た…5月14日
気仙沼市から北上して陸前高田市に入り、全滅している町の中を進んでいて眼に留まったのが鯉のぼり。敷地内で片づけをしている人を見つけて、近づき話しかけると手を止めて「さあ、どうぞ」と椅子をすすめられました。ここで3月11日の生々しい状態を聴かせていただいた。
- 菅野さん:
- この町には大阪岸和田のだんじり祭りに似た祭りがある。
町の若いものがどこからか鯉のぼりを探してもってきた。
少しでも明るい気持ちになればと願って泳がせている。
鯉のかけ方は福来旗(大漁旗)のかけ方にした。
子供の日が終ったら「福来旗(ふらいき)」を掲げたい。
- 一番上には黒い布で弔意。・真ん中にふらいき(大漁旗)。
- その下に黄色の布(幸せを呼ぶ色だから)
最後に「今、ここで黄色の布が手に入らない。大阪で手に入ったら送ってもらえないか!!」と
頼まれた。大阪で入手して5月5日発送。7日「届いた」との電話をいただいた。
5月10日 7:20ごろのNHKの朝のニュースで菅野さんと黄色の布が放映されました。
小さなことですが、被災された方のお一人に喜んでいただいたことが嬉しかった。
いつの日か、気仙町の祭りが復活したら行ってみたい。菅野さんと再会したい。
- ガレキの中で泳ぐ鯉のぼり
- ふらいき(福来旗=大漁旗)のように
たなびかせて
菅野さん 根付いて欲しい手植えの山吹
第9報:被災している町に見える神社、祠。神社は津浪に飲まれなかったのか?
津浪によって多くのものが壊されていますが、被災地を回る中で神社、祠が残っているのを多く見かけました。残っている・・と言ってもその間際まで津浪が押し寄せており、間一髪の場所でした。神を祀るところを見下ろしてはならない・・と考えての高い位置なのか?幾たびかの津浪を経験した結果、此処なら大丈夫!!と村人が考えてのことなのか?その真意は分かりませんが、現実は「神社、祠より高い場所なら被害が少ない」と思えました。
第8報:石碑は生き残るための境界線。すなわち想定内…4月29日、30日
4月6日の日刊スポーツに「これより下に家を建てるな」と刻まれた石碑が有り、その集落は今回津波の被害を免れた・・との記事があった。
今回の岩手県行きの一つの目的がその石碑を訪ねることでした。
この地は過去に津浪による大被害を蒙っています。
慶長三陸地震(1611年12月2日)
明治三陸地震(明治29年6月5日) 1896年
昭和三陸地震(昭和8年3月3日) 1933年
チリ地震津波(昭和35年5月24日)1960年
途中の道は通行困難であったため、(有)かくり商店の社長さんに山越えの道を教えていただて行ってきました。
帰り道の宮古市重茂でも、翌日宮古市金浜の江山寺そば、大槌町吉里吉里でも見つけました。
石碑のすぐそばまで津浪が押し寄せており、先人の言葉のすごさをかみしめ、一つ一つの石碑に頭を下げてきました。
今回の大震災では「想定外」という言葉をテレビから度々耳にしました。しかし石碑の手前で津浪は止まっています。このことは先人が今回の津浪の大きさを「想定」していたことの証です。
約80年前、昭和8年の村人が子孫の命を守るために考えて搾り出した「生き残るための境界線」がこれらの石碑です。
文明の利器に恵まれた我々が安易に「想定外」と言うのは先人に対して謙虚さを失した言葉と思えてなりません。
- (1)宮古市姉吉の石碑(撮影4月29日)
- 奥が今の集落。津波は石碑まで50mのところまで到達した。
- (2)宮古市重茂(おもえ)の石碑(撮影4月29日)
- 姉吉の帰り道、重茂の坂道で見つけた石碑。石碑から2mぐらい下まで津浪が押し寄せていました。
- (3)宮古市金浜・江山寺そばの石碑(撮影4月30日)
- 石碑よりかなり高い位置まで浸水しています。
これは他の石碑とは異なり、亡くなられた方々への慰霊墓碑のようにも思えました。
- (4)大槌町吉里吉里の石碑
- 石碑の…線まで津浪が押し 寄せており、石碑の位置が境目でした。
第7報:岩手県の被災地で何ができるか!!…4月29日~5月1日
千葉、茨城県の液状化地盤に目処がたちましたので、やっと岩手県の被災地に入りました。
大阪伊丹⇔いわて花巻空港、宿泊は盛岡市内、動きの足はレンタカー、2泊3日。
テレビや新聞で報道される惨状を見てきました。しかし、いざ被災地に入ると言葉が出ませんでした。いままで何回も自然災害の被災地に行きましたが、被災場所は町や集落の一画でした。
ところが今回の被災地で眼にした光景は
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- 45号線の高い場所からみると町や集落はほぼ全滅しています。こんな光景はいままで見たことがありませんでした。
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- そばの斜面には直前まで使っていた生活用品が散乱しています。
その高さは住宅の棟より高く、場所によっては海水面よりも30mぐらい高い。
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- 広大な被災地の後ろに「残っている建物」があることに気づきました。
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- 町の道路からはガレキが撤去され敷地内に積まれています。通常、ガレキと言えば「不用になった物」ですが、全て直前まで使っていた物なので人々の想いを感じます。
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- 「赤い布を巻いた竹」があちこちのガレキの山に見えます。
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- かろうじて残った建物や車に「解体OK」、「処分OK」が書かれています。
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- この光景と「がんばろう日本!!」のテレビ画面に違和感を覚えました。
3日間で910km走行し、自分の眼に焼きつけた被災の一端は一生忘れられないものでしょう。
またこの光景を眼にしたからには「想定外・・自然災害だから・・」などを絶対に口にせず、今後のために、微力であってもできる限りの仕事をしたい!!と心に誓いました。
- 4月29日
- 花巻空港→盛岡南IC→国道106→宮古市(港の市場周辺)→津軽石→赤前→山越え→重茂→
姉吉→赤前(かくりき商店)→国道106→盛岡のホテル
注目:被災建物の後方に被災していない建物が残っていることをみてほしい。
これは当然のことながら建物の強さの違いではありません。
- 4月30日
- 盛岡ホテル→国道106→宮古市中心部→国道45→宮古市金浜→陸中山田→大槌町吉里吉里→
大槌町中心部→鵜住居→釜石市中心部→国道283→遠野→花巻空港IC→盛岡ホテル
- 左は宮古湾。防潮堤が高く、住宅地盤は低い。
- 宮古市金浜地区
大槌町吉里吉里の被災全景
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黄色い水仙
大槌町中心部の被災全景 / 津浪とそのあとの火事
鵜住居地区:大槌湾から甲子川にそって押し寄せた津波。
ここは甲子川が曲がっていた。大雨の豪雨による氾濫被害は外側が大きい。今回は津浪が海から逆流してきた。
釜石の町 / 海から山が近い(神戸に似た)ので被災を免れた建物が目に付く。
- 5月1日
- 盛岡ホテル→盛岡IC→一関IC→国道284→宮城県気仙沼市(港の市場と周辺)→唐桑町大沢
→要害漁港→陸前高田市気仙町12:30~14:30→陸前高田市役所側(対岸)に行こうとしたが橋が流されて行けない。やむなくここでUターンし花巻空港に向かう。
3日間の走行距離910km。補給したガソリン51L、≒18km/L(マツダデミオ1300)
宮城県気仙沼市
唐桑町大沢・・神社は残った
陸前高田市気仙町
多くの避難した気仙小学校。その後、津浪が押し寄せたため桜の裏山に避難した
- まとめ
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大きな地震であったにも関らず、斜面の崩れを見かけなかった。地球の歴史45億年。この長い 年月の間に遭った様々な自然現象によって脆弱な地盤が削りとられ、残った岩心のような硬い地盤で形成されているのが「リアス式海岸」この地域なのか?と想像した。
津浪で被災した地域の奥に被災していない建物がある。
それを先人は石に刻んで我々に伝えようとした。
津浪を止めることはできない。
ならば「低い場所を避けて、高い場所で生活する」しかない。
この地に住む人の生命と財産を守れるのは「高さ」しかない。
日本の太平洋側には次なる大地震の恐れが近づいている。
どのような災害の可能性があるか?
そのためには今から何を備えておけば良いか?